昭和42年9月14日 夜の御理解
昨日、小倉の富永さんが、妹さんの矢野さんを一緒に同道でお参りをされた。
どうもこの頃、やせられるもんですから、心配になって医者にかかった。
ところが、バセドー氏病であるこということが分かった。目が飛び出るやつですね、のどが腫れて、目がこう出てくるやつ、大変珍しい病気だそうですけれども、それについてその、椛目の親先生にお伺いをさせてもろうてから、親先生が入院をせんで良いと仰るなら、入院はするまい、または、入院をせろと仰りゃ、入院をさせて頂こうと、お伺いをしてからということで、ま、見えたんです。で、私はそのことを、神様にお願いさせて頂いて、ま、お伝えさせて頂いたことですけれども、信心はどこまでもこの、一心にならなければおかげは受けられない。一心ということは、あなた一筋ということである。
ね、あれこれとこう、迷うたり、二道をかけたんでは、おかげにならん。
一心にならなきゃならない。そこで私は、あなたはあの入院をなさったらよかろうとこう思うと。ね、とにかく掛かられたお医者さんの言われるようにおかげを頂きなさい、ね、でないと一心になりません。
ほいでもう実は、医者もいらん薬もいらん、神様一心に縋れとこう仰るだろうとこうま、予想しておったらしいですけれども、私はそう申しましたから、それでおかげ頂きましょうか、ちゅう。ね、それが一心になればおかげになるのだ、ね、お願いをする、お取次を頂く、お伺いをさして頂いて、医者にかかれと仰ったから、医者にかかる。薬を飲めと仰ったから、薬を飲む。入院をせれと仰ったから、入院をする。こんな一筋じゃないですか。ね、ですから、この一筋が大事なんだ。そこんところを教祖は、この、祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ、とこう仰る。
ね、ですからここのへんは、信心を頂いておりましても、大変微妙なところですからね。それはお薬を飲む、そして後からお願いをすると、ね、そういうことになりますと、は、このお薬は効いたということになるのです。おかげ頂いたと言いやおるけれども、ね、飲めと仰ったから飲む、入院せれと仰ったから、入院する、ね、医者任せになれと仰ったから、医者任せになる。神様からそう頂いたから、そうするのであって、初めて一筋になる。ね、決して医者と信心とが両立すると、対立するということはない。
どこまでも神様のおかげで、入院させてもらう。神様のおかげで、注射をしてもらう、お薬を頂かせてもらうということになるときに、一筋、一心ということはそういうことなんだ。あ、それで安心がでけました、というてま、お礼を申しておりましたが、また、お姉さんの富永さんに私は申しました。もし富永さんこれがあなたならばね、私はどういうことじゃろうかと、言うてから話したことでした。
ね、私がこれがもし富永さんの方であったら、それはもう医者にかかることはいりませんよ、お医者さんの奥さんですよね、けども私は、あのご自身が、今までにそれこそ医者ではどうにもできない病気をおかげを受けられたり、ご主人があの、腕に大きなこぶがあったのを、神様のおかげでおかげを頂、それこそおかげを頂いて神様の働きというものを知っておる。神様の働きを信じておる。ですからたとえば、あれが富永良子さんであったら、もう、いらんいらん、薬はいらんよ、お医者にかかることはいらんよと、入院はいりませんよ、と、私はあなたにならばお取次ぎさしてもらうと。ね、そしたらあなたは腹が決まるでしょうが、あなたは、一心になれるでしょうが、神様一心に、ね、そこは信心の過程なんだ。段階なのだから。なら、矢野さんに私がそう言うたら、は、先生が仰ったから医者を辞めたけれど、ほんに医者にかかっておったら、薬を飲んでおったら、まちった、早く治らせんじゃろうか、という程度の信心、体験を持たない。ね、だから矢野さんの場合は、お願いをして、ね、お取次を頂いて、入院もする、薬も飲むということになれば、それで一筋としての一心のおかげ、一筋のおかげが受けられる。
それでも富永さん、あなたの場合なら私はこういうふうなお取次をさしてもらうだろうなと言ったら、先生私もそう腹を決めますでしょう、例えそれが珍しい、ま、治りにくい、それがそのバセドー氏病であろうがです、私ならば、おそらく、どうぞ一心におすがりしおかげを頂くだろう、それだけは信心の段階というか、信心の相違ということが、そのお取次ぎの上にもそういうふうに現れてくるんだと言うて、お話させて頂いた。
問題はどちらにしても、一心じゃなからなければ駄目だということ。
ね、例えばそういうようなある方がです、ね、例えば、は、親先生が、医者にかからんでよかとおっしゃったけんかからん、それでも心の底には、ほんに医者に入院でもしとったらもっと早く治りだんせんだろうか、薬飲んだら、まっちょ、体が楽にならせんじゃろうか、というようなものがあったら、ま、これは二筋であり、心が二筋だ。
はいと言いよるけれども、これがほんとの一筋のはいじゃない。
ね、これはそれぞれの信心の過程、富永さんの場合は、それが神様の働きというものをです、も、医者でも薬でも、いや現代の医学ではどうにもでけ無いというような命までおかげを頂いておる、しかも一回ならず、ニ回ならずおかげを受けておるから、それを信じれるから、そういうお取次ぎがでけるわけです。
ね、だから小学生に対する信心の進め方と、なら、大学生の信心の進め方はおのずと違うてくる。私は大学生だと自称して、まあまあ思うておる、ま、自分の十何年も椛目におかげ頂いておるから、も、自分な大学生的な信心を頂いておると思うてもです、ね、只今も申しますように、どっちつかずの信心では、おかげになりません。これは椛目だけのことじゃありません。一事が万事そうです。御神縁を頂いても、ね、そこに迷いがあったらもう一心じゃない。先生はああ仰るけれども、と迷うておったら、それではおかげにならん。ね、それなら、やはり始めからです、どうぞお伺いをせずに、こうなりますように、ああなりますようにというて、願ってそのことを一心に願った方が、まだいいということになるのでございます。祈れ、薬れにすれば、祈り、祈り祈るということ、お取次を頂いて、お願いをして、お伺いをさせてもろうて、いわゆる薬れにすれば、いわゆる薬を飲めば、医者にかかれば、おかげも早いがと、こう仰る。
ね、薬れ、祈れにすればおかげも早いが、ね、薬れ祈れにするからおかげにならんと。ね、先に薬に頼る、医者に頼る、それではほんとのおかげになってまいりません。またおかげを受けても、いや、あのお医者さんは上手じゃったとか、あの薬は効いたとかいうぐらいな気持ちがあって、おかげを頂きましたというてでも、やはりお礼心も二心、ね、ほんとに、あの、あなたの薬が良う効きましたというてお医者さんにお礼を言うたり神様にお礼を言うたりということになる。
たとえてなら、ね、祈って薬れということだったら、お医者さんにお礼を言わんで良いかという、そうじゃない。決してそうじゃない。ね、神様にお願いをして、神様にお礼を言わして頂く、ね、神様のお取次を頂いて、医者にもかかり、薬も飲むというと同じこと。ね、ほんとに神様のおかげで薬も効きました、神様のおかげで、お医者さんが、いうなら手術をしそこないもありませんでした、神様のおかげで、薬の盛違いもなしにおかげを頂いたという意味合いにおいてのお礼ということになるんです。
ね、お礼も一筋、願いも一筋、神様ごと一筋にならなければ、おかげになりません。どうぞ。